友人宅の遺品整理を手伝っている。
収納を開けて、
中のものを出して、
残すかどうかを考える。
袋に詰めて、運ぶ。
運んだ先で処分費を支払う。
帰って、また出す。
詰める。
運ぶ。
支払う。
毎日その繰り返しだ。
出したあとは掃除もある。
乾いたほこりなら、まだいい。
拭きはらえば終わる。
でも実際には、
ひと拭きでは落ちない汚ればかりだ。
なかには得体のしれないゴミも出てくる。
物というのは、「置いているだけ」ではすまない。
存在を忘れられたものたちは、
時間と一緒に汚れも抱え込んでいく。
なるべく持ち物を減らして、
ちょこちょこ掃除をしている私ですら、
その“ちょこちょこ”の間に汚れは溜まる。
ましてや、使い切れない量。
忘れ去られたまま積み重なったものたち。
その片づけの大変さは、
数倍どころじゃない。
遺品整理をしていると、
自分の持っているものまで、全部手放したくなる。
人ひとりいなくなるだけで、
こんなにも多くのものが残されるのかと思う。
そしてその“あと始末”は、
残された人の時間も、労力も、お金も、精神力も、
いっきに奪っていく。
持っていた本人は、もう何もしなくていい。
捨てる罪悪感も。
片づける苦労も。
「なんでこんなに残したの」と思われる痛みも。
全部、残された側が引き受ける。
その現実を、私自身も経験してきた。
私の両親にも、それぞれ親がいたわけだけれど、
私の知る限り、両親とも親の遺品整理はしていない。
母と同居していた母方の祖母は倹約家で、
持ち物もかなり少なかった。
だから母は、ほぼそのまま置いていた。
だから私は、
祖母と母、そして父。
三人分の整理をすることになった。
足の踏み場もない部屋に入るたび、
心が折れそうになった。
明日からにしようか…と、
扉を閉めそうになった日も、何度もあった。
それでも手を止めなかったのは、
これを私は絶対に娘へ肩代わりさせない、と思ったからだ。
背を向けそうになるたび、
娘の顔を思い浮かべて、
黙々と手を動かした。
母は生前、私に言ったことがある。
「あんたなら潔く捨てられるだろうから」
きっと母なりの信頼だったんだと思う。
でも。
潔く捨てられるかどうかと、
その作業にかかる時間と労力とお金は、別の話だ。
たぶん母には、そこまで想像できなかった。
いや。
想像できたとしても、その頃にはもう遅かったのだと思う。
体力も。
気力も。
時間も。
“今すぐ始める”には、残っていなかった。
だから私は、まだ動ける今のうちにやろうと思ったんだった。
友人宅の遺品整理を手伝いながら、
その決意をまた思い出した。
物の量で善悪を言うつもりはまったくない。
もちろん、残された側の現実的な事情からすれば
少ない方がありがたいけれど。
物の量ではなく、どう扱っているか?
だと思うのだ。
どんなに見直しても手放せないなら、
それらをきれいに扱ってほしい。
ほこりをかぶるのはやむを得なくても、
せめてカビが生えるような環境にしないでほしい。
大切に思われていたことが伝わるほど
それらの存在を忘れないでいてほしい。
それが簡単にできることなら
遺品整理が社会的な問題にならないのだけど。
せめて、自分のことくらいは
自分でできるうちにやっておこうと思う。
ちなみにこのブログで何度も書いたけど
「私の棺桶には、これを入れてね」と、
娘に伝えているのが、このボックスの中。

この中に、母の遺品整理をしていたときに見つけた
こんな手紙も入っている。

私が母に書いたもの。
これを見せた友人も大笑いしていたけど。
何度見ても泣き笑いしまう。
遺品整理。
苦痛なことばかりじゃなかったことも思い出した。
今日も引き続き、お手伝いに励もう。












